昔、グレン・クローズ版のCDを何度も聴き、「いつか舞台で観てみたい」と思っていたミュージカル『サンセット大通り』。
今回、サラ・ブライトマン主演による来日公演で、ようやく念願が叶いました。
(そして、今年2回めのオーブだったりする・・・😅)
オーヴァーチュアが鳴り響いた瞬間から、ノーマ邸だけ時間が止まってしまったような重厚で退廃的な世界観に一気に引き込まれ、気付けば作品世界へ没入していました。
ロイド・ウェバーの楽曲を生演奏とともに聞けたこと・サラの肉声を聞けたこと・ノーマ邸のセットの美しさ・メインキャストを始めとしたアンサンブルの方たちのパフォーマンスに魅了されて、あっという間の2時間30分でした。
観劇後に改めて振り返ると、この作品は単なるハリウッドの栄光と没落を描いた物語ではありません。
過去に生きる者、未来へ進もうとする者、それぞれが異なる「時間」を生きる四人の人物が織りなす、美しくも切ない人間ドラマの側面もありました。
今回は、作品考察も交えながら、『サンセット大通り』という名作ミュージカルの魅力を振り返りたいと思います。



オーヴァーチュアが描いた「時間が止まった世界」
今回、最も心を震わせたのは、やはりオーヴァーチュアでした。
私は昔からグレン・クローズ版のサウンドトラックを何度も聴いていたので、楽曲そのものには馴染みがありました。
ですが、生演奏で耳にしたオーヴァーチュアはまったく別物でした。
演奏が始まった瞬間、ノーマ邸だけ時間が止まってしまったような、不思議な感覚に包まれたのです。
そこは絢爛豪華でありながら、どこか現実味がなく、夢と現実の境界が曖昧になるような世界。
華やかなハリウッド黄金期の面影を残しながらも、その空気には長い年月の澱が静かに積もっています。
その重厚さと退廃美が、厚みのあるオーケストラの響きによって見事に表現されていました。
演奏が始まった瞬間、「この作品は音だけで世界観を語っている」と感じ、思わず鳥肌が立ちました。
そして観劇後に改めて振り返ると、このオーヴァーチュアは単なる幕開けではありませんでした。
ノーマ邸だけ時間が止まってしまったような世界。
その世界を音だけで描き切り、『サンセット大通り』という作品が描こうとする「止まった時間」を、観客へ静かに提示していたのです。
当時は漠然と感じていたこの空気感も、物語のラストまで観終えた今なら、その意味がよく分かります。
この作品は、最初の数分から、すでに結末へ向かって歩き始めていたのでした。
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数日前に月組公演観に行ったばかり、ということもあり、オケの響き方の違いが際立ちました・・・実は次の日もまた、月組公演だったので、改めてオケの聞こえ方を検証してしまいました・・・

え!?何そのスケジュール・・・
止まった時間と流れる時間──『サンセット大通り』の人物構造
一般的に『サンセット大通り』は、サイレント映画時代の栄光を忘れられず、時代に取り残された大女優ノーマ・デズモンドの悲劇として語られることが多い作品です。
私も以前、映画版を観た時は、「過去の栄光を忘れられず、狂気へと飲み込まれていく女性の物語」という印象を持っていました。
ですが今回、初めて舞台を観て、その印象は大きく変わりました。
もちろん、この作品の中心にいるのはノーマです。
しかし観劇後に改めて振り返ると、この作品はノーマ一人の物語ではなく、それぞれ異なる「時間」を生きる四人の人物が織り成す物語でもあったように思います。
ノーマは、サイレント映画全盛期という過去に生きる女性。
ジョーは、諦めと希望の狭間で揺れながらも、未来を失ってはいない男。
マックスは、その止まった時間を守り続ける人。
そしてベティは、未来そのものを象徴する存在でした。
この四人の時間が交差することで、『サンセット大通り』という物語はゆっくりと、そして悲劇へ向かって動き始めます。
ノーマ──過去に生き続ける大女優
サラ・ブライトマンが演じたノーマは、決して「怖い女性」ではありませんでした。
むしろ、繊細で儚く、どこか気品すら感じさせる女性だったのです。
物語が進むにつれ、精神的に不安定になっていく姿は確かに描かれます。
少女のような無邪気さも垣間見える。
姫女優が、そのまま年を取った、とでも言いましょうか。
歌唱については、一時期のサラ・ブライトマンを知る人なら、表現の変化を感じるかもしれません。
ですが私は、その変化こそがノーマという人物に重なっていたように思います。
若き日の輝きを過ぎ、それでもなお舞台へ立ち続ける一人の表現者。
アンドリュー・ロイド・ウェバー作品で初代クリスティーヌを演じたサラだからこそ、過去の栄光と共に生きるノーマという人物へ、誰にも真似できない説得力を与えていました。
彼女だからこそ、ノーマは「狂気」ではなく、「気高さ」と「儚さ」をまとい、結果として精神が壊れていった女性として舞台上に存在していたのだと思います。
私は、ノーマは最後まで現実がまったく見えていなかったとは思いません。
むしろ、薄々、自分が時代に取り残されていること、自分の復帰が決して簡単ではないことを理解していたのではないでしょうか。
だからこそ、ジョーという存在に必死で縋った。
彼女にとってジョーは、単なる恋愛対象ではありません。
まだ未来を生きている人。
まだ人生が動いている人。
過去に取り残された自分とは対照的な存在だったのだと思います。
ジョー──諦めと希望の狭間で揺れる男
一方のジョーは、借金を抱え、脚本家としても売れておらず、燻り続ける人物です。
本人からすれば、人生はどん底。
借金取りに追われ、偶然迷い込んだのがノーマ邸でした。
本人は完全にヤサグレています(笑)。
ですが、不思議なことに、ノーマから見たジョーはまったく違う存在として映ります。
ジョーはまだ未来を失っていません。
脚本を書き、恋をし、新しい人生を選び直す可能性が残されています。
だからこそ、二幕冒頭のプールサイドで見せる鍛え上げられた肉体も、私には単なるサービスシーンには見えませんでした。
あの見事な肉体は、過去に留まった世界へ流れ込んできた生命力そのもの。
もちろん、思わず「これはノーマも惚れるよね(笑)」と思ってしまいましたが、それ以上に、「まだ人生は動いている」という象徴のようにも感じられたのです。
だからジョーは、ノーマ邸での安定した生活と、ベティとの未来との間で揺れ続けます。
安定した生活基盤を捨てられない現実。
それでも、ベティを通して感じた希望に賭けたい。
ジョー役のティム・ドラクスルは、その狭間でもがき続ける、とても人間臭い主人公をとても魅力的に演じていました。
ベティ──未来を象徴する存在
そしてベティ。
彼女は、この作品の中で唯一、未来だけを見つめている人物です。
ジョーの才能を認めながらも、甘やかすことはしません。
脚本の欠点は率直に指摘し、より良い作品を一緒に作ろうとする。
ここがノーマとの大きな違いでした。
ノーマとの脚本作りは、あくまでノーマが用意した復帰作『サロメ』を書くためのもの。
主導権は常にノーマにあり、脚本はすべて彼女の意のまま。
一方、ベティとの共同執筆は違います。
二人は対等な立場で意見を交わし、新しい作品を創り上げていく。
同じ「脚本を書く」という行為でも、一方は過去を再現するための創作であり、もう一方は未来を生み出す創作でした。
ジョーがベティに惹かれていくのは、恋愛感情だけではありません。
創作者として対等に向き合える相手だったからこそ、彼は未来への希望を取り戻していったのだと思います。
そんな「未来」そのものの象徴であるベティをメアリー・マッコリーは、爽やかで瑞々しく演じ切っていました。
マックス──止まった時間を守り続けた男
そして最後に、ノーマ邸の執事・マックスです。
彼もまた、ジョーと対になる存在でした。
二人とも創作者です。
ジョーは脚本家。
マックスは元・映画監督。(そして、ノーマの元夫でもある・・・)
しかし、二人は正反対の人生を選びます。
ジョーは過去から抜け出そうとし未来に向かって歩みを向けようとする。
マックスは自ら過去を守る道を選びました。それは、ノーマを守るためです。
マイケル・コーミックのマックスのその深く温かみのある歌声は静かに語りかけるよう。
その一音一音から、長い年月をノーマと共に歩んできた人生が伝わってきます。
マックスは決して多くを語る人物ではありません。
ですが、その寡黙さの中に、ノーマへの深い愛情と覚悟が込められていました。
今回改めて感じたのは、彼はノーマを甘やかしていたのではないということです。
監督としてのキャリアを手放してまで、ノーマを守る道を選んだ。
ここまで観ていて、私はあることに気付きました。
マックスは、監督を辞めたのではなく、最後まで監督だったのではないか。
そのことに気付いた瞬間、ラストシーンの見え方が大きく変わりました。
あの一言が胸に響いたのは、マイケル・コーミックという俳優が、それだけ深くマックスという人物を生きていたからなのでしょう。
四人の演者が、この物語に命を吹き込んだ
『サンセット大通り』という作品をここまで深く味わえたのは、作品そのものの完成度だけではありません。
四人の主要キャストが、それぞれの人物を単なる役柄としてではなく、一人の人間として舞台上に生きさせていたからこそ、私は「止まった時間」と「流れる時間」という物語の構造を自然と受け取ることができたのだと思います。
互いの人物像を引き立てながら、一つの物語を丁寧に紡いでいました。
だからこそ私は、『サンセット大通り』を「止まった時間」と「流れる時間」が交錯する物語として受け止めることができたのだと思います。
そして、その人物たちの人生が歌と芝居によって自然に立ち上がっていたからこそ、この作品は観劇後も長く心に残り続けるのでしょう。
悲しくも、美しく、そしてどこまでも気高いその姿は、「狂気」という一言では語り尽くせない、人間の哀しみと女優としての矜持を感じさせるラストシーンでした。
『サロメ』が照らし出す、ノーマ邸という幻想
ここまで、『サンセット大通り』を「止まった時間」と「流れる時間」という視点から振り返ってきました。
そして、その二つの時間が最も激しくぶつかるのが物語のラストです。
ジョーはようやく未来へ踏み出そうとし、ノーマは最後の希望を失おうとしていました。
二人の想いがすれ違った先に待っていた悲劇。
そして、その結末をより深く考える上で欠かせないのが、ノーマが復帰作として執着した『サロメ』という作品でした。
ラストシーンを観ながら、私は『サロメ』とノーマ、そしてマックスの存在が一本の線でつながったように感じたのです。
未来へ踏み出そうとしたジョーの決断
二幕に入ると、ジョーの心は少しずつ変化していきます。
ノーマ邸での生活は豪華そのもの。生活に困ることはない。
しかし、その暮らしぶりは決して自由なものではなく、外出も隠れて行う始末。
脚本の主導権は常にノーマにあり、ジョーは彼女の理想を形にするための存在です。
一方で、ジョーは若き脚本家・ベティと再会します。
ベティはジョーの脚本を率直に批判しますが、それは彼の才能を否定しているからではありません。
作品をより良くしたいという想いと、ジョーの才能を信じているからこその言葉でした。
やがて二人は、新しい脚本を共同で書き始めます。
ここで私は、とても印象的な対比を感じました。
ノーマとの創作は、過去を取り戻すための創作。
ベティとの創作は、未来を生み出すための創作。
同じ「脚本を書く」という行為でありながら、その意味はまったく異なります。
創作者として対等に向き合える喜び。
そして、その先に広がる未来。
ジョーはベティに惹かれると同時に、自分自身の未来も少しずつ取り戻していきます。
しかし、その変化をノーマも敏感に感じ取っていました。
ジョーの心が、自分から離れ始めていること。
そして、その先にベティという存在がいることを。
ノーマはついにベティへ電話をかけ、自分とジョーの関係を打ち明けます。
この場面を観ながら、私はノーマを「恐ろしい女性」とは思いませんでした。
むしろ、胸が締め付けられるほど痛々しかったのです。
サイレント映画の栄光も失い、復帰への道も見えない中で、ジョーだけが彼女にとって「まだ未来とつながっている存在」でした。
だからこそ、彼を失うことが何より怖かった。
あの電話は、狂気というより、一人の女性の悲鳴のように聞こえました。
その最中、ジョーは屋敷へ戻ってきます。
そして電話を奪い返し、ベティを屋敷へ呼び寄せます。
ここでのジョーの行動が、私はとても切なく感じました。
彼はすでに、ノーマの精神状態が限界に近いことを理解していました。
さらに、彼女が拳銃まで手に入れていたことも知っています。
だからジョーは、自分の本心を押し殺しました。
ベティを守るためです。
屋敷へやって来たベティへ、ジョーはあえて冷たく振る舞います。
「自分はこの暮らしが気に入っている。」
「豪華な生活を捨てるつもりはない。」
そんな言葉を並べ立て、彼女を突き放します。
もちろん、それは本心ではありません。
背後には拳銃を持ったノーマがいる。
ジョーは、ベティだけは巻き込みたくなかった。
だから、自ら悪者になることを選んだのです。
私は、この悲しい嘘こそが、ジョーという人物を最も象徴する場面だったように思います。
借金まみれで、人生に迷い続けてきた彼。
それでも最後に選んだのは、自分の保身ではなく、愛する人の未来でした。
ベティが去ったあと、ジョーは初めてノーマへ現実を突きつけます。
そして荷物をまとめ、自らの意思で屋敷を後にします。
ようやく未来へ向かって歩き始めた、その瞬間でした。
ノーマは拳銃の引き金を引きます。
『サロメ』と重なるノーマの悲劇
私は、この場面が単なる衝動的な殺人には見えませんでした。
ジョーを撃った瞬間、ノーマは完全に『サロメ』の世界へ入り込んでしまったように感じたのです。
王女サロメは預言者ヨハネに恋をしますが、その想いは最後まで受け入れられません。
やがて踊りの褒美としてヨハネの首を望み、銀の盆に載せられたその首に口づけをする──美しくも狂気に満ちた物語です。
ノーマが『サロメ』という作品に強く惹かれたのも、自らの運命をどこか重ねていたからなのかもしれません。
ジョーは最後までノーマの想いを受け入れませんでした。
その関係は、サロメとヨハネの関係とも重なって見えます。
だから私は、ジョーを撃った瞬間、ノーマは現実ではなく、『サロメ』という物語世界を生き始めてしまったのではないか、と感じました。
翌朝、警察や報道陣が集まる中、ノーマは髪を乱し、メイクも崩れた姿で部屋から現れます。
そして『サロメ』の台詞を口にしながら、ゆっくりと階段を降りていきます。
あの姿を見て私は、ジョーの亡骸がノーマにとっての「ヨハネ」になってしまったのだと感じました。
もちろん、これは私自身の解釈です。
ですが、それほどまでにサラ・ブライトマンが演じたノーマは、現実と幻想の境界が溶け合っていく様子を繊細に表現していました。
最後まで「監督」であり続けたマックス
そして、このラストシーンでもう一つ強く感じたことがあります。
それは、マックスは最後まで映画監督だったということです。
以前映画版を観た時の私は、マックスを「監督崩れの哀れな執事」としか見ていませんでした。
ですが今回舞台を観て、その印象は大きく変わりました。
彼は監督を辞めたのではなく、最後まで監督だったのではないか。
そう考えると、ノーマ邸そのものが一本の映画セットに見えてきます。
主演女優はノーマ。
脚本家はジョー。
そして、その世界を演出し続ける監督がマックス。
マックスは執事という役を演じながら、ノーマという一人の女優の人生そのものを演出し続けていたのです。
だからラストでマックスは静かに語りかけます。
「Action!」
この一言には、執事としてだけではない、映画監督としての人生までもが込められているように感じました。
この一言は、現実逃避のための優しい嘘であると同時に、監督として最後のカットを撮るための合図にも聞こえました。
その言葉に導かれるように、ノーマは最後の大芝居を始めます。
階段を降りる彼女は、もはや現実を生きる女性ではありません。
スポットライトを浴びる一人の大女優として、人生最後の舞台へ立つノーマ・デズモンド。
四人の演者は、それぞれが主役を奪い合うのではなく、互いの人物像を引き立てながら、一つの物語を丁寧に紡いでいました。
だからこそ私は、『サンセット大通り』を「止まった時間」と「流れる時間」が交錯する物語として受け止めることができたのだと思います。
そして、その人物たちの人生が歌と芝居によって自然に立ち上がっていたからこそ、この作品は観劇後も長く心に残り続けるのでしょう。
悲しくも、美しく、そしてどこまでも気高いその姿は、「狂気」という一言では語り尽くせない、人間の哀しみと女優としての矜持を感じさせるラストシーンでした。
まとめ
『サンセット大通り』は、サイレント映画時代の栄光を忘れられない大女優ノーマ・デズモンドの悲劇として語られることの多い作品です。
ですが今回舞台を観て、私の中では少し違った景色が見えました。
過去に生きるノーマ。
その時間を守り続けたマックス。
未来へ踏み出そうと揺れ続けたジョー。
そして未来そのものを象徴するベティ。
四人それぞれが異なる時間を生きていたからこそ、この物語はこれほどまでに切なく、美しい作品になったのだと思います。
そして、その世界観をオーヴァーチュアからラストシーンまで一貫して描き切ったオーケストラとキャストの皆さんには、心から拍手を送りたいです。
『サンセット大通り』は、一つの名作ミュージカルとして深い感動を与えてくれただけでなく、私自身のミュージカルとの向き合い方にも、新たな視点を与えてくれた作品でした。
一つの作品との出会いが、また次の作品との出会いへつながっていく。
そんな観劇の楽しさを、改めて実感させてくれた『サンセット大通り』でした。
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『サンセット大通り』の日本語版、また上演してくれないかなー

ノーマとジョー、誰がやるのか気になる・・・
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